大谷翔平の父・徹さんは元社会人野球の選手!超一流を育てた父と息子の関係とは

今回は大谷選手の父・徹さんの経歴を紹介していきたいと思います。

社会人野球でプレーをしていた経験を持ち、野球のスキルはもちろん、大谷選手の野球に取り組む姿勢にも大きな影響を与えました。

徹さん自身も

自分も社会人まで野球をやってきましたが、これほど自分が野球を好きだったのかと気づかされたのは翔平のおかげ。
それだけでも大きな親孝行をしてもらいました。

と語るほど、親子の絆は深かったようです。

この記事では徹さんの半生を振り返りながら、大谷選手の野球人生にどのように関わってきたのかを見ていきたいと思います。

「大谷選手が世界のトップ選手になったのには、こんな背景があったのか!」がわかる記事になっているので、ぜひ最後まで読んでいってください。

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目次

父・徹さんの経歴

まずは徹さんの経歴を少年時代から振り返っていきます。

大谷徹 プロフィール

年齢:(2023年で)61歳

出身:岩手県北上市和加町

身長:183cm

経歴:岩手県立黒沢尻工業高校三菱重工横浜

幼少期〜中学時代

岩手県北上市で生まれた徹さんは、幼少時代からスポーツ万能。小学校の時から野球に熱中していました。

ただ「坊主になるのがイヤ」という理由で、中学は野球部ではなく陸上部を選択。

猛練習によって県大会入賞まで行くも、それより上は難しかったといいます。

その頃から負けん気が強かった徹さん

相手の背中を見るのが我慢できない

と、中学2年でサクッと野球部に鞍替え

野球部ではエース兼4番バッターとして活躍し、県内の強豪校の目に留まるまでの存在になります。

高校時代〜黒沢尻工業高校〜

進学したのは、「黒沢尻工業高校」

徹さんが中学3年生の時、甲子園出場を果たした岩手県有数の高校でした。

高校時代は広島カープの高橋慶彦に憧れ、右打ちを左打ちに変えるなど一心に野球に取り組む日々。クリーンナップを任され、左の強打者として鳴らします。

しかし結局3年間、甲子園出場が叶うことはありませんでした。

本気で甲子園を目指して野球に情熱を注いできた分、反動も大きかったそうです。

燃え尽き症候群に陥り、内定していた社会人野球のオファーも断ってしまいました。

それでも、秋頃になると気持ちが落ち着き「もう一度野球をやりたい」とまた野球の虫がムクムクと騒ぎ始めます。

採用時期は過ぎていたものの、OBのツテを頼って横浜にある社会人野球チーム「三菱重工横浜」のセレクションを受け、選手としてプレーすることになりました。

社会人野球時代〜三菱重工横浜〜

三菱重工横浜でのプレースタイルは、クリーンナップを張るのではなくスピードを生かしてチャンスメイクするタイプ。

身長は180cm以上あったんですけど、体に似合わずセーフティバントをしたり、足が売りの選手でした

徹さんが社会人2年目、1年遅れて入社してきたのが妻・加代子さんです。

当時は、女性の新入社員全員がチアガールに駆り出される文化がありました。そこで選手とチアガールとして出会い、交際へと発展したそうです。

非常な戦力外宣告から引退まで

最大の大会である都市対抗野球、そしてその先のプロ野球を目指して練習を続ける毎日。

24歳、社会人6年目に徹さんは非情な通告を受けます。

監督から

来季は戦力として使うつもりはない

と、事実上の戦力外通告。

野球選手として一番いい時期に差しかかり、「これからは若手のリーダーとしてチームを引っぱっていく」と決意した矢先の出来事でした。

徹さんは逡巡しながらも、最終的にはこれを受け入れます。

小さい時からずっと続け、プロを目指してきた野球を辞める決意をした理由のひとつが結婚でした。加代子さんとの結婚を機に、野球を辞め仕事に専念することにしたんです。

新しい家族とともに生まれ故郷へ

26歳の時、長男の龍太さんが生まれます。

もともと横浜には野球をやるために来ていたので、引退したいま「いずれは岩手に帰ろう」と考えていました。

そのタイミングで、トヨタが数年後に岩手に工場を作る計画があることを聞き、思い切って関連会社へ転職します。

長女の結香さんが生まれた1年後、トヨタが「トヨタ自動車東日本岩手工場」を新設。

大谷選手が生まれ育ち、才能を開花させた岩手の地に家族で移り住むことになりました。

大谷選手との強い絆

岩手に移った翌年の1994年、末っ子の大谷選手が誕生します。

幼い頃から運動能力の高さは抜きん出ていて、バドミントンにしろ一輪車にしろ、一度見ただけでサッと動きを真似してしまうような子でした。

徹さんは大谷選手の「野球の才能」についても驚いたようで

運動能力が他の子と明らかに違った。

他の子は手取り足取り何回も繰り返し教えなければならないのに、翔平は一度教えただけでマスターした。なかなか出来ることじゃない。

『天才を作る親たちのルール』(文藝春秋)

7歳上の兄・龍太さんの後を追うように、大谷選手が小学2年で野球を始めた時、徹さんも一つの決断をします。

リトルリーグ「水沢リトル」のコーチを志願し、大谷選手の野球にトコトン付き合おうと決めたんです。

この決断には、長男・龍太さんに対する懺悔の気持ちも含まれていました。

コーチとして大谷選手と向き合う

龍太さんが野球を始めた頃は、徹さん自身、転職や工場立ち上げなどで仕事に忙殺されていた時期。

まったく余裕がなく、練習をがんばる息子に対してキャッチボールの相手をしてあげる時間すらありませんでした。

大谷選手が野球を始めた時に、「龍太に何もしてやれなかった分、翔平にはしてやろう」という気持ちが強かったそうです。

土日は丸一日練習、時には夜勤明け一睡もせずにグラウンドに向かってコーチをすることもありました。

同僚たちとの付き合いを止め、睡眠時間も削りましたが、また野球に関われるという喜びの方が大きかったといいます。

大谷選手との「コーチ・選手」の関係は、中学を卒業するまで7年間続くことになります。

どの子供たちともフェアに接する

徹さんがコーチをするうえで守っていたことがありました。

『どの子供たちとも平等に接すること』

父親としては息子である大谷選手に目が行きがちですが、チームのコーチとして選手をフェアに扱おうとしたんですね。

大谷選手も、指導者である徹さんの立場を理解していたようで

同じ実力だったら、息子でない違う子を試合で使わないといけないと思うんです。
だから、息子である自分が試合に出るためには圧倒的な実力がなければいけない
チームのみんなに納得してもらえる実力がなければいけない。

と、仲間の何十倍も練習してプレーを向上させていきました。

父と子の個人指導

チーム全員に平等に接していたため、大谷選手への個人指導はもっぱら練習前か練習後の居残り。全体練習以外の時間にやっていました。

朝8時、みんなが集まる1時間ほど前に2人でグラウンドへ行き、みっちり指導。

社会人野球までいった自身の経験をフルに生かし、バッティングやピッチングを教えたそうです。

また行き帰りの車の中お風呂タイムは、自然と勉強会になっていました。

なにかあったときにはすぐに話をしました。こうしなさい、こうした方がいいと。

打ち方・投げ方はちょっとしたことで大きく変わってしまうため、特に小さな変化にも注意を払っていたそうです。

野球に対する取り組み方を育んだ「野球ノート」

徹さんと大谷選手をつなぐのに欠かせなかったのが「野球ノート」の存在です。

父親と息子であり、指導者と選手でもあった2人の、いわば野球交換日記のようなものでした。

徹さんが練習での評価やアドバイスを書き、大谷選手が反省やこれからの課題を書き込む。

このノートでのやり取りは、野球を始めた時から小学5年生ごろまで続いたそうです。

徹さんが大切にしていたのが「課題や反省を字できちんと書き残すこと」

エラーや三振など、野球には失敗がつきもの。

そこから次にどういう取り組みをしていくのか、「書く」ことによって日々の練習の意識づけをしてほしいという思いからでした。

失敗を失敗で終わらせないということも、大谷選手が野球ノートから学んだひとつだったのかもしれません。

自分のプレーを振り返り、課題を明確にすることによって、幼き日の大谷少年は野球に取り組む姿勢を磨いていくことになります。

甲子園を目指し花巻東高校へ

早朝の個別指導、車やお風呂での勉強会、野球ノートでのやり取りなど、徹さんの教えによって大谷選手はメキメキと実力をつけていきました

所属するシニアチームが強豪ではなかったため、中学卒業時に声をかけてもらえた高校は4校。それでも、仙台育英など甲子園常連校がズラッと並ぶラインナップでした。

徹さんと大谷選手は練習見学に2人で出向き、それぞれの高校の野球環境や特徴がどういったものなのかを吟味。

最終的に、大谷選手は地元岩手の「花巻東高校」を選びます。

甲子園を目指すため、親元を離れて寮生活で野球に打ち込む決断をしました。

大谷選手の高校時代からメジャー挑戦まで

花巻東高校時代の大谷選手は、甲子園には2回出場

3年生では高校最速160km/hをマークするなど、全国にその名を轟かせていくことになります。

高校時代の息子との距離感

野球を始めた時から中学卒業まで、常に大谷選手の野球人生に深く関わってきた徹さん。

高校時代の距離感は、「静かに見守る」を貫いていたそうです。

これまでとは違って自分はグラウンド外の人間、という線引きをきっちりしていました。

花巻東高校の佐々木監督はこう話します。

お父さんは社会人野球までプレーされてた方ですが、我々の指導や起用法について何も口を挟むことなく、ただ黙って見守っている。

あれだけの息子がいても決して天狗になるようなところがないんです。

『道ひらく、海わたる』(扶桑社)

自身の野球経験から、何かしら言いたくなることもあったかも知れません。しかし、でしゃばった言動は控えて一定のラインを守っていました。

花巻東の環境、そして何より大谷選手の「自ら吸収して道を切り開いていく力」を信じていたんですね。

息子の意志を一番に

「静かに見守る」スタンスは、大谷選手が進路を決める時にも変わりませんでした。

大谷選手の高校の進学先について、徹さんも「都会の学校で埋もれるよりも、伸び伸びプレーできる環境がいいのではないか」など、父親なりの希望を持っていました。

特に、花巻東高校は人間教育にも力を入れているので「ここなら」という気持ちも始めからあったといいます。

それでも、花巻東に行ったほうがいい・行くべきだと本人に進言することはいっさいありませんでした。

最終的には、大谷選手自身の決断によって「花巻東」への入学が決まります。

後悔しないためにも自分の道は自分で決める。
その代わり、選んだからには最後まで責任を持つ。

これが父・徹さんの考えでした。

そして、それは母・加代子さんも同じでした。

夫も私も子供の人生の選択には口を挟みません。
もちろん相談されれば意見を言うつもりでしたが、子供たちは3人とも自分で道を決めています。

息子を信じ、しっかり見守る

メジャーか、日本のプロ野球か。

大谷選手が高校卒業後の進路に揺れていた時期も、徹さんと加代子さんは息子の決断をじっと見守り続けました

成功が約束されているわけではないプロの道。

それもアメリカに渡る可能性まであるとなれば、親としては心配は尽きなかったでしょう。

それでも口は挟まず、大谷選手の決断を一番に尊重する姿勢を貫きました。

メジャー行きを宣言したのも、日ハムを選択したのも息子の意思。自分が納得する方向に進むのが一番です。
でも、もしメジャーに行くとなったら僕も会社を辞め同行する覚悟は出来ていました。

両親の思いを胸に、大谷選手は今メジャーの舞台へと大きく羽ばたいています。

まとめ

大谷選手の父・徹さんの経歴を見てきましたが、いかがだったでしょうか。

社会人野球でプレーした徹さんは、大谷選手が野球選手として成長していくのに欠かせない存在でした。

自分の元を離れてからは一歩下がり、自ら道を切り開いていく息子を暖かく見守る姿が見えてきましたね。

父と子の関係を知ると、大谷選手の見方もまた変わってくるのではないでしょうか

今シーズンの活躍も期待したいですね!

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